支部長雑感

修行と修業

2017年11月13日

今回のお話もあくまで私の理解の上においての話であります。

「修行」と「修業」、よく使われる言葉であります。
武道の世界では日常用語であります。心の中に肯定的に響く言葉です。
宗教的には、曹洞宗は「修行」の方を、臨済宗では「修業」の方が使われています。
私は必ず「修行」の方を使います。

この二つの「しゅぎょう」は少し意味が違っています。
当たり前ですが「行」は「おこない」、「業」は「わざ」の意味です。

武道は、もちろん技の習得を第一の目標としております。技の習得のために、自分を鍛え、身体や精神を整えていきます。
これらは「修業」つまり、業を修める行為でしょう。
この言葉には時間の観念がありません。業を修めることが目標、目的になります。

一方、その「しゅぎょう」の日々を十年、二十年と続けることは、容易なことではありません。とても大変です。
「おこないおさめる」ことを一大事と考え、ひたすら道を歩み続ける。
これこそが「修行」の本来の意味、目的と捉えることになります。

続けることは大変です。迷いさまよい、曲がりぶつかり、それでも一筋の道を歩み続けるのは、それだけでも価値として大いなるものがあると思います。

しかし、芸術や学問、または武道などにとっては、継続だけでなく、そこに至る成果や結果がどれほどのものになるかも気になるところであります。時間の長さに比例してそれらの差は大きいものになります。
また、結果が大事とされる今の時代においては、常に他人との比較がつきまといます。

しかし、相対的な比較など、自身の「修行」には全く関係ありません。ひたすら続ける行為の果てには、いたる境地、いたる極地があるだけです。
その世界は、上もなければ下もないところだと思います。
あるのは平穏、平坦、中庸、安息などなど、表現は様々ですが、とても幸せの世界が待っていると信じております。

生きていくだけでも「行」であります。
「修行」を続ける喜びは、生きる喜びに繋がるものだと思います。

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