2014年01月01日
明けましておめでとうございます
本年もよろしくお願い申し上げます
表題は「かつぜん」と読みます。
中部大学教授の武田邦彦先生に色紙にサインをお願いした際、先生から書いていただいた言葉です。この時初めて、この言葉を知りました。
意味は、「視野が大きく開けるさま」「心の迷いや疑いがきえるさま」をいいます。つまり、ある事柄が「おー、そういうことだったのか!」といきなり分かってしまうことがあると思います。そのような様ではないでしょうか。
武田先生には、私が従事していた業界で、その業界に対して理解あるご意見やご講演をしていただいたご縁で、この色紙を頂きました。
武田先生は、私の生涯の目標である「価値相対主義の実践」において、その体現者であります。もちろん先生ご自身の口から「価値相対主義」という言葉をお聞きしたことはありません。私自身、結構な年齢になって未だに「相対主義」だ、なんだと言っているのは、ちょっと幼稚なのかもしれません。これは、先生のお話やブログを読んで思った私の勝手な感想であります。日本的に言い換えると「禅的思考」をされる、あるいは「禅味あふれるお考えを持つ」方だと思ったのです。
さて、「豁然」です。
日頃、稽古や努力をせずに「豁然」と悟ることはないと思います。地道に毎日努力を重ね、ある日突然「そうか、そうだったのかー。これはこの事だったんだ!」と感じることがあると思います。このことを指して「豁然」と言う言葉で表現するのだと思います。
私は毎朝1時間の稽古を日課としています。そして、夜は道場稽古や自主稽古を行っています。朝の稽古は、怪我をして出来なった時を除いて26年間継続しています。
自身の稽古のことをお話したのは、稽古時間の多寡は別として、日常の稽古から離れては「豁然」たる思いは出てこないのではないか、ということを言いたかったからです。また、努力の成果の現れ方は、一通りではなく、ある時にはジワジワと結果があらわれ、またある時はいきなり「豁然」として顕れるものではないでしょうか。
禅の世界では、頓悟主義というものがあり、悟りはジワジワ顕れるものではなく、ある時ストンと悟りの時を迎えるものだという考えが主流になっております。反対は漸修主義というそうです。
しかし、禅僧が毎日何も努力せず、漫然と日常を過ごしては大悟することはなく、ひたすら毎日座禅を中心とした努力を重ね、その後に、いつの日か悟りの時を迎えるものだというのは、至極当たり前のことだと思います。
以上のお話は、なにも稽古や座禅に限った話ではなく、日常生活においても、常に心正しく、毎日の行いや努力を疎かにせず、謙虚に継続して続けることが、いつかその努力の成果が「豁然」と自身の目の前に顕れると言えるのではないでしょうか。
しかし、仮にその成果が自分の期待していたものとは違った結果になったとしても、続けた努力の証は自分自身の中に宿り、その後の人生に間違いなくプラスになるものだと、私は確信しています。
正月早々、かたいお話になりました。
すみません。
今年も、道場生と一緒に楽しく努力を重ねていきたいと願っております。
押忍
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