2026年01月26日
志を同じくする者たちが集う空手道場では、道場生を指導するというのは難しいものではありません。なぜなら、指導することに対して道場生が素直に対応してくれるからです。
異を唱える者などいません。指導員のその実力を道場生はそのまま認めてくれています。
したがって、「俺はこんな技術を持っているぞ」とか「このような考え方をしています」といったことを言わずとも、みんなが納得してくれます。
しかし、このような、少し悪く言えば緩い世界ともいえる場所で、ややもすると感違いをしてしまう人は多いのではないでしょうか。もしかしたら、私もその一人かもしれません。
もちろん、このことは実社会における職業や職場での立場にもいえることだと思います。たとえば、会社の上司が部下に声を掛けると、肯定的な返事しか返ってきません。また、社長が会社で思いのままに振舞っても、誰も注意しません。もちろん、家庭の中における家長的存在の人にもそれはいえます。
これらのことは、良くも悪くも相手がこれらの人のことを十分知っている、又は理解している上に成り立っていることです。
したがって、一旦そのような世界から、一歩外に出てしまうと、誰も「私」を知らないので、気ままに自分勝手に行動することはできません。下手すると叱責、嘲笑、無視等の扱いをされてしまいます。
知らない世界、新しい世界、一度限りの集まり等においては、おのれという人となりを分かってくれるまで、誰も評価してくれません。認めてくれません。
しかし、だからといって「私はこんなに実力があるのですよ」や「私はこのような資格を持っています」などいちいち説明しないと、「私」という人間は誰にも相手をしてもらえないものなのでしょうか。
このことに関して、昔、こんなことがありました。
ある時、山内文孝前支部長(以下「支部長」とします。)に向かって、ひとりの道場生が悩みを打ち明けました。その場には、私もいました。
くだんのその人は支部長に、「この前、職場で同僚の方々に『僕は空手をやっているんですよ。』と話したのですが、誰も驚いてくれないのです。なんででしょうか。」と相談したのでした。
それを聞いた支部長は、
「そんなの当たり前だ!」と少々怒気を含んだ口調で諭されました。
つまり、違う価値観を持っている人には、自身の実力、資格、肩書など、なんの武器にも尊敬の対象にもならないということです。
この点について、私も支部長と同意見です。
おのれの抱く大切な矜持も、ひとたび自分の心の外に出てしまうと、それは相対的に弱いものでしかないということです。残念ですが。
総じて、どんな人も生きていくうえで、評価されたり、されなかったりします。相手にされたり、されなかったりします。
しかし、長い人生の積み重ねで、人は変わっていきます。真摯に努力を重ねると、おのれの内側に「心の実力」が醸成されていきます。それがいつしか、気付かぬうちに自分の周りに見えない形として顕れてきます。
たとえば、私は、初めてお会いした方に対して、心の中で「おぉっ!」なることがあります。
それは、その方の姿勢、清潔な身なり(高価な服や装飾品を身に着けているということではありません)、立ち居振る舞い、笑顔、やわらかい口調、他人に対する優しさなどを見るに、「この人は人物だなぁ」と思った時です。
おそらく、このような人に対する評価は、私だけでなく、過去や現在又は東西も関係なく、多くの方が持つ共通の人物観ではないでしょうか。
そして、そのように他人から思われる方は、いちいち「私はこういう者です。」と証明しているわけではありません。
勝手に相手が思ってしまうのです。
結局、そういう方はご自身で、言わずもがな「こういう者」だということを証明しているのです。
これは、証明なき証明であり、誇示なき誇示とも言えると思います。
結論として、社会において、俺が俺がと自分を前面に出すのではなく、自身が積み重ねてきた経験、資格、役職、社会的立場等を柔らかいオブラートで包み、その代わりに、こんにちまで培ってきた心の姿勢をやさしく人に触れさせることで、今回の冒頭でお話ししたように、接した相手は素直に「私」を認めてくれるのだと思います。
人生を歩いていくためにわざわざ自分を証明するということは、本来不要なことなのではないでしょうか。
押忍
2020年06月15日
2020年06月11日
2020年05月13日
2020年04月30日
2020年03月26日
2020年02月27日
2020年02月08日
2020年01月24日
2020年01月01日
2019年12月26日