支部長雑感

「肚で観ろ」

2016年09月04日

メディアの発達、インターネットの普及、及びそれに伴う個人が意見表明できる場の急速な拡大など、今や一億総評論家と化した時代となっています。
しかし、自由に発言できる場が増えた反面、何気なく話した一言が、見たこともない人たちに攻撃され、火だるまにされてしまいます。
もちろん、中には非難されても仕方のないような非常識な意見や困った考え方などあるかもしれません。しかし、真摯に考え誠実に答えた言葉に対し、その発言の隅にある微かな傷やほころびを突き、その人の全人格までも否定するようなことは、あまりにも人として行うべきことではないと思っています。

今回はこの事柄に関しての私の考えであります。
私は、吉川英治先生の「宮本武蔵」が大好きで、高校生の時初めて読んでから現在に至るまで繰り返し愛読しております。
座右の書であります。病こうこう、ついには初版本(昭和11年発行)まで手に入れるほどに至りました。
その「宮本武蔵」の中にある好きな一節をご紹介させてください。

修行中の武蔵が、宝蔵院流槍術の悪口を奈良の街で言いふらして回っているとして(もちろんデマです)、宝蔵院当主である胤舜がその行為に対して咎め立てをしているシーンです。

……
「武蔵―ッ」と、その僧がさけんだ。
「聞くところによれば、汝、いささかの腕を誇って、この胤舜が留守中に、門下の阿巖を仆し、またそれに増長して、宝蔵院のことを、悪しざまに世間へいいふらしたのみか、辻々へ、落首など貼らせて、吾々を嘲笑したと申すことであるが、確(しか)とそうか」
「ちがう!」
武蔵の答えは、簡明だった。
「よく物事は、目で見、耳できくばかりでなく、肚で観ろ、坊主ともある者が」
(新装版「宮本武蔵」(二)講談社 昭和58年12月6日第1版発行 37頁)

……
なるほど、その言葉、その発言を額面通りに受け止めるのではなく、自分の生きてきた過程や修行の成果などを通じて、自身練りあげた肚を持って、その一見悪意に満ちた言葉や許せない発言を、自分の中で見つめ直してみるべきなのではないでしょうか。その結果、かの発言をされた方の本心や真意、あるいは真実が見えてくるかもしれません。

まあ、それでもなお、許せない感情が残ったとするならば、それはもはや、そのようなことを言い放つ人は、自分の理解の範疇にいない人で、己の人生にとってはほんの通りすがりの人、自分の人生劇場の舞台上に出てきた「ただの通行人」としてしまうのが良いのではないでしょうか。
少しふざけた言い方になりましたが、言いたいことは、反省や検証は必要なことですが、過度の気にしすぎや心配は不健康であり、人生の障碍になるということです。

逆に考えれば、多くの意見が飛び交うことのできる社会は、自由が保障されたとても良い社会であると言えます。
決められた発言や偏った考え方を強制される社会は、少なくとも私は良い社会だとは思えません、否定します。

書いている内容が四方八方に飛び散りました。すみません。

今回、言わせていただきたいことはひとつだけであります。
「よく物事は、目で見、耳できくばかりでなく、肚で観ろ」

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