支部長雑感

刀は切れるもの

2025年03月28日

たとえば、熟練された剣士ならば、硬いものでもきれいに切ることができます。
何故ならば、刀は切れるものとして切るからです。
当たり前なことを言うなといわれそうですが、私は、現実には切る人によってそこに大きな違いが出てしまうと思っています。
かつて剣豪と云われた塚原卜伝、上泉信綱、柳生石舟斎、伊藤一刀斎、宮本武蔵、丸目蔵人などは、それぞれの時代、地域において無双無敵とされています。
この人物たちが闘いにおいて、手に力を込めて刀の柄を握りしめ、肩をいからせて相手を切ることは絶対になかったと思います。すなわち、脱力してゆるゆると刀を握り、肩の力を抜き、相手に対峙して緊張することもなく立ち会ったと容易に想像できます。
当然のこと刀は切れるものとして。

もっとわかりやすい例として、現代において名料理人といわれる方々や長年家族の料理を作り続けてこられたお母さんお父さんは、力を込めて包丁を握って、材料である食べ物を切ったりはしないと思います。
なぜなら、包丁は切れるものだからです。
切れるはずのものを疑って、「切れろー!」とばかりに心や腕に力を込めて包丁を握ったりはしないと思います。

今回のお話で何が言いたいのかと申しますと、空手など打撃系の武道や格闘技の世界では、右のようなそんな当たり前のことがなかなか通用しないからです。
技としての突きや蹴りに、自分の技としての自信や信頼がないからか、相手に打撃を加えるとき、思い切り力を入れて突き又は蹴ってしまいます。
力の入ったそれらが効くわけがありません。なにせ力を入れてしまうことでスピードが相当に落ちます。また、相手の体に当たった時に「抜け」が生じません。
分かっているのに、そうしてしまいます。

また、経験不足、体格差、あるいは相手に対する恐怖心、相対する強面の顔に畏怖するなど、さまざまな要素が自身を縛ります。
その結果、余分な力が入った動きの遅いものになってしまい、効かせる技が発揮できないものになるのだと思います。

逆の例として、先代館長である芦原英幸先生や現芦原英典館長の突き蹴りを見ますと、それはみごとに脱力された技、リラックスされた動きや表情、それゆえの相当なスピードと威力を目の当たりにして、門下生という立場を超えて感心させられます。そのような技が効かないわけはありません。

では、刀が当然に切れるように、みずからの技が相手に通用するようになるためにはどうしたら良いのでしょうか。
それは、自身の技は相手に効くのだと信じること、そして、それに見合う実力をつけることだと思います。
至極自信のある技を使うのに、力みや硬さが伴うことはありません。己の技が相手に効くことに疑いがないからです。また、緊張のない心から、動きがスムーズで淀みがなく、相手からしたら捉えどころのない動きになります。
いいことずくめです。

今回のお話の結論は、脱力及びそれに至るための鍛錬が肝要だということです。

しかし、このことは、人としての営み全般にも云えることだと思います。
仕事、学問、受験勉強、家事や育児など、挙げればきりがありせんが、すべからく努力と熟練及びかかる意識の有り無しにより、その行為が簡単なものに、あるいは難しいものに変化するのだと思います。
ひいては人生そのものも全く然りだと思います。

押忍