2023年09月22日
私は、ノンポリらしいだらだらした大学生活を経て、1986年4月に熊本に戻り、働き始めました。
高校時代より空手をやりたかったのですが、部活における空手は伝統派のそれでしたので興味がなく、また、最初に入ったこの大学は希望の大学ではなく、それにより、これといった目標も見つけることができずに無気力に過ごしてしまいました。
そこで、働き始めたら今度こそ空手を、そしてやるからには芦原空手をと思っておりました。「ケンカ十段芦原英幸」への憧れからでした。
といっても、一番近い芦原会館の支部は、先代館長の初の自叙伝「流浪空手」(1981年11月10日初版 スポーツライフ社)によると、熊本県北の長洲町にあるとのことで、熊本市内に住む私としては、通うのに少々迷いがありました。
そのような状況の中、同年すなわち1986年6月のある日の昼間、フラッと職場近くの本屋に立ち寄った私は、その店のスポーツコーナーに平積みされているある本が目に飛び込んできました。
それは、「今、蘇る芦原伝説」という先代館長に関する特集を載せていた「月刊空手道」(1986年7月号、福昌堂発行)でした。
表紙に大きく先代館長の写真が写っていました。
「おー、芦原英幸だ!」
私は迷わず購入し、早速本を開きました。
何ページにも亘り、先代館長や芦原会館の特集記事がありました。
ずっと昔から、単純に「ケンカ十段芦原英幸」に憧れていた私でしたが、芦原会館の中身のことは全然知りませんでした。
固有名詞としては、長洲町にある熊本支部の支部長が山内文孝という人で、前述の「流浪空手」の中で「熊本山中の猛者」(「流浪空手」184頁)と紹介されていた方だというくらいしか覚えていませんでした。
その月刊空手道を読み進めていると、何ページ目かに、何やら小さい紙片が差し挟まれていました。
開いてみると、
「芦原空手 熊本道場」
「稽古場所 帯山中学校体育館」
「稽古日 火・木・土」
「館長 芦原英幸」
という内容のコピーでした。
「熊本市内に芦原会館の支部ができたんだ!」
と思いました。
しかし、すぐに芦原空手を学べることへの喜びが芽生えたわけではありませんでした。
なにせ、何年もの間運動らしい運動も行っておらず、ましてや、互いに直接当てて戦う空手なんかやったこともありません。
なので、
「なに、熊本市に芦原会館の支部ができたって?
よし!やるぞ、すぐに入門するぞ!」
なんて気持ちはまったく起きませんでした。
このように書きますと、冒頭の空手に対する思いと矛盾しているではないかと怒られそうですが、人間というのは、自身でも理解、整理できない心の部分というのが多々あるものではないでしょうか。
そして、「決意」と「現実」とは、その道の入り口においては、おおいに乖離しているものだと思います。
そのような心と日常の中で、7月、8月・・・と無為に日にちは過ぎていきました。
しかし、その間の私の心には、今までの人生を省みて、「このままでは、このまま人生が終わってしまう」という焦りに似た気持ちが常にありました。なので、例の熊本支部を紹介した紙片は、いつの日か必ず入門すると信じて大事にとっていました。
果たして、その年の秋のある日、意を決して熊本支部のある帯山中学校体育館に向かうことにしました。
稽古があるはずの日の夕方7時すぎ、帯山中学校の駐車場に着きました。
そして、車の中で稽古が始まる時間を待っていました。
刻々と時間が進んでいきます。
その間の私の心といったら・・・。
私はその精神状態、すなわち緊張と胸の鼓動の高まりに耐えることができませんでした。
あろうことか、車を反転させて、帰ってしまいました。
情けない、とは思いませんでした。
私の芦原空手に対する思いよりも、また、空手を通じて己の人生を前に進めるのだという決意よりも、はるか躊躇の心のほうが勝っていたからです。
やれやれ振り出しです。
私の人生はピクリとも動きそうにありません。
年が明けました。
1987年です。
働き始めて2年目、仕事もなんとかこなしていました。
しかし、私の中の無為な心に変わりはありません。
さらに日が経ち、芦原会館熊本支部を目前に逃げ出してから1年近くが過ぎました。
ずっと続いている変化のない日常、そしてベタ凪の心に、また例の気持ちが湧いてきました。
「このままでは、このまま人生が終わってしまう」と。
今度こそ・・・。
そう決意して、同年7月16日、再び帯山中学校体育館へ向かいました。
今度は、不思議と躊躇する気持ちは起きませんでした。
車を降り、体育館の入口で、熊本支部の関係者が来るのを立ったまま待ちました。
すると、一台の車が駐車場に入ってきました。
車から、一人元気そうな子供が降りてきて、体育館に入っていきました。
続いて、運転席から一人の男性が降りてきました。
その人は体育館に入る前、入り口に立っている私に気づき、軽く会釈をされました。
「この人が支部長さんかな?」
私は体育館に入り、その方に見学希望を申し出ました。
「どうぞ」
その人は言葉少なに答えました。
その後、7,8名の道場生が体育館に入ってきました。
くだんの「その人」が道着に着替えて、体育館の後ろ付近に立ったままの私の前を通りすぎ、体育館の奥へと歩いていかれました。
「山内文孝」
締めた黒帯をチラと見たとき、その帯に書かれた名前を確認できました。
「この人が『流浪空手』に載っていた山内文孝というひとか」
なにげに思うものがありました。
というのも、空手の指導者というのは、ものすごくカミソリのような人物、又は筋骨隆々の体躯の人を想像していましたので、その物静かな出で立ちには、違和感、又は拍子抜けといった感想を持ちました。
稽古が始まりました。
10名弱の道場生の前で指導を行いつつ、支部長は稽古を始められました。
いや、びっくりしました。
先ほど抱いた違和感が、吹っ飛びました。
支部長の動きは、素人にも分かるすごさでした。
天高く伸びる蹴りとは、このようなものをいうのかという感想でした。
稽古時間の2時間、私は立ったまま見学を続けました。
そして、稽古終了後、私は支部長に歩み寄り、入門希望を告げました。
見学とはいうものの、私は初めから入門の意思を持ってその場に臨んでいました。
支部長より快く承諾をいただき、翌稽古日、すなわち1987年7月18日に、私は晴れて、芦原会館門下生になることができました。
やれやれようやくです。
ここに至るまでの日々の長かったこと。
……
よく「狭き門より入れ」と云われます。
すなわち「滅びに至る門は大きく、その道は広い。そして、そこから入って行く者が多い。生命に至る門は狭く、その路は細く、之を見出す者少なし」(新約聖書マタイ伝7章13節)ですが、私はその門の入り口に立つことさえ出来ずに弱き日々を過ごしてきました。
何度も言いましたが、無為な日々というものは、私にとってはとてもおそろしいものでした。
もちろん、入門後に待っていた試練の方がはるかに厳しいものではありましたが、私にとって芦原会館は、支部長、そしてその後に直接ご指導をいただくことになった先代館長のお陰で、人生における「狭き門」になりました。
入門直後のお話は、よろしければ拙文2015年12月3日分をご参照ください。
直前まで無為の日々を送ってきた者の人生が、入門したくらいでそんなに簡単に変わることなどないということを書いております。
ちなみに、芦原会館熊本支部紹介の例のコピーは、のちに支部長から伺ったところ、先代館長特集記事掲載の「月刊空手道」が出る直前に、熊本市に支部を作ることが決まり、これを幸いとして、市内の各書店を回り、お店の方にお願いして、「月刊空手道」に支部の紹介コピーを挟ませてくださいという旨のお願いをされたとのことです。
しかし、すべての書店から断られたそうです。
そこで、支部長はあらためて後日、いくつもの書店を巡り、お店の人の目を盗み無断で、並んでいる何冊もの「月刊空手道」にこっそり該コピーを差し込んでいかれたそうです。
このコピー(あとで支部長手書きのものと知りました)は、35年以上経った今でも大切に持っております。
私にとってこれは、「狭き門」へ入る通行手形でした。
押忍
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