支部長雑感

修証一等

2017年06月25日

「しゅしょういっとう」と読みます。
曹洞宗開祖の道元禅師が主張された心構えです。
「修」は修行、「証」は悟りのことです。
意味としては「修行と悟りは同じこと」というものです。

例えば、空手道において、黒帯を目指して頑張っている人がいるとします。日々の稽古を継続して頑張っていました。そして、その人が昇段審査に挑みました。しかし、彼はその審査で残念ながら落ちてしまい、その後、諸事情があり空手を断念してしまいました。
彼は黒帯になれませんでした。しかし、長い間、黒帯を目指して修行した日々は消えません。
黒帯取得を「悟り」に例えると、それを目指した「修行」の過程は「悟り」と同じことなのです。同価値なのです。黒帯を取れなかったことで、その過程が無価値になることはないのです。

さらに例えれば、ある男がよこしまな気持ちで汚い手段を使い、大きなお金を得たとします。今度は、何を思ったかその稼いだお金を、慈善事業などきれいなことに遣いました。
どうでしょう。
よくない行為で得た金でも、良いことに使えば、きれいなお金になるんじゃないかと考えもあるかもしれません。
しかし、「修証一等」の考えからすると、プロセスが結果と同様に大切だということになります。
汚れた過程は正しい結果にはつながらないと思います。

最近気になっている言葉に「無為の人生」というのがあります。
何も成し遂げることができなかった人生というものです。自分が今まで生きてきて何を成したかを省みると、空恐ろしくなります。何も成していない、そして、このままならこのままの人生で終わるのではないか、と。

しかし、「修証一等」の考えからすると、「今」なのです。
今をどのように生きているか。今日をいかに過ごしているか。歩んでいる足元が見えているか。目標に向かってどのように努力をしているか。
これらをしっかり意識して、毎日、真摯に努力を続けることだと思います。
それが、結果として「結果」を得ることが出来ずに終わっても、それは「結果」を目指して努力を続けることで既に「結果」を得ているのと全く同じことだと思います。

押忍

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M君

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