支部長雑感

心のなかのルール

2016年06月20日

東京都知事が一連の騒動の果てに辞任しました。
この騒動でよく出てきたフレーズに「不適切ではあるが違法ではない」というのがありましたが、これは普通の人の感覚として納得できるものなのでしょうか。

法律に触れなければいいのだ、という考え方は、自分自身の中にルールを持っていない人の考え方だと思います。

たとえば、「人が見ているから悪いことをしない。決まりだから守る。他人がダメといったからしない」などの考え方でいつも生活している人がいるとします。
そのような人は、必ず、他人が見ていない時に、コソ悪る(こそっと悪いことをする)をします。
例えば、人が見ていないと、平気で赤信号で横断歩道を渡ります。マナーの悪い運転をします。ゴミを道端に捨てます。公共施設を乱暴に使います(これらは本来は法律違反ですよ)。

私は、修行をするというのは「自分を見つめる自分」を鍛えることだと思っております。
自分を見つめる。自分の行動を検証する。自分の行ったことを反省する。一見、窮屈に見えるこれらは、実は、心の中の自由を感じるための練習になるのではないでしょうか。
自分の中にルールがあれば、当然、ごく自然にそれに則って日頃の生活を行うことができると思います。

人から、もしくは社会から、これをやっちゃダメ、それはやって良し、右に行くな、左は止まれ、といちいち注意されなければ人の道に従った生活ができない、というのではあまりに窮屈です。
主体性がなさすぎます。
そもそも、法律はおよそその国で生活している人々に最低限のルールを予め国家が決めたものです。そう、最低限です。

自分の心のなかに行動規範があり、生活信条があり、何より人生における誠実さがあれば、人から言われなくても自由に生きることができると思います。
自由に生きる、自由を味わう、自由を楽しむというのは、無制約な生き方の果てには無いと思います。

「自分を見つめる厳しい自分」がいてこそ、広大な自由空間が目の前に広がっていくものだと思います。

押忍

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あらためて、ありがとうございました

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ありがとうございました

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M君

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