支部長雑感

「あとはお前がやれ」

2025年01月24日

山内文孝支部長(以下、支部長とします。)は、先代館長の下で長年修行されたのち、1981年頃、故郷の熊本県長洲町に戻られ、この地で最初の道場を開き、後進の指導を始められました。
そののち1986年春に、熊本市において熊本支部を立ち上げられました。

私は、1987年7月に入門しました。
以前の拙文で、入門後の様子を書きましたとおり、すぐに芦原空手に熱中するようになりました。
先代館長の存在と教え、支部長のご指導により、本物の空手とはこういうものだということを知ることができたと思います。
入門以来ほとんど休むことなく臨んだ1989年3月の審査で、先代館長から初段をいただきました。飛び上がるほど嬉しかったです。初段の免状と帯が届いたときには、実際に家中駆け回って喜びました。

初段取得後、黒帯を締めての稽古が始まります。
1年、2年と楽しく稽古を続ける日々を過ごしました。やはり、よほどのことがない限り稽古を休むことはありませんでした。
後進の指導も増えてきました。

熊本支部の黒帯第1号ということで、支部長には目をかけていただきました。
たとえば、1990年初めの頃の九州北地区審査会の終了後、支部長は先代館長に向かわれて、
「瀬野が熊本支部のリーダーです」
とあらためて紹介してくださったことがありました。
先代館長はその時、
「そうかー、しっかり山内を助けてくれよ」
とおっしゃってくださいました。

しかし、1994年に入り、年齢も30を越え、家庭もできて人生の充実期にさしかかると、空手に対する気持ち、その大切に思ってきた気持ちに変化が出てきました。
理由としては、なんだったのでしょう。
それは、このまま稽古を続けても強くならないのではないか、体格も筋力もなく、根性もない私が、空手を続けて心身ともに、真の意味で強くなることがあるのか等、いろいろ心のなかに芽生えてきたのでした。
特に大きかったのは、この先どれだけ続くかわからない、終わりがあるのか分からない稽古を続けることへの不安でしょう。きつい稽古を上回るほどの成果を今後も得ることができるのか疑問になってきたのです。

したがって、稽古が楽しくないのです。
稽古を休むことが増えてきました。
空手を辞める口実を探すことも度々ありました。

何度も支部長に気持ちを伝えました。
「空手を辞めたいのですが・・・」
「理由を言ってみろ」
その度にいい加減な辞める理由をつけて話しました。
そして、本当にしばらく道場に行かないブランクを作ってしまいました。
そのあいだ、空手に対する気持ちは、ジェットコースターのように好き嫌いの間を行ったり来たりしました。
このような状態で、自身の空手の実力が向上するなんてことはありませんでした。

1990年代の熊本支部は、実際に稽古に通う会員が10名から15名くらいでした。支部長は、稽古に来た人数に関係なく、毎回熱心に指導をされていました。
しかし、1996年、支部長は家庭の都合で、先述の長洲町のご実家に戻られることになりました。その結果、熊本支部での支部長のご指導は、週1回くらいとなってしまいました。

それからの熊本支部は、支部長が不在の時の稽古は、私の後輩に当たる者が指導を行うようになりました。
私は休みがちでしたので、指導を担当することはありませんでした。
その後、その後輩も会館を辞めてしまい、今度は私の先輩に当たる方が指導をすることになりました。
熊本支部は、このような状況が1996年から2年ほど続きました。支部活動が安定しない時期であったといえるかもしれません。

そんな状態が続いているうち、私にとって大きな転機となる1998年が来ます。1994年から続く、迷い迷いの心の4年目のことです。

転機となった事の発端は、1997年12月末のことでした。
例年と同じように年末のご挨拶をするために支部長に電話を入れました。
ご挨拶のあと、しばらく世間話をしていました。とはいっても、支部長はいつも武道もしくは哲学のお話をされます。
そのような話を続けておられたとき、突然、支部長は、
「熊本支部は、あとはお前がやれ」
と言われました。

びっくりしました。
しかしこれは、支部長は、数年にわたり空手に関して揺れている私の心を読まれてのことだったのだと思います。

電話を切ったあとの私の心はどうなったのでしょう。
それは、信じられないくらい明白に、空手を続けよう、そして強くなろうという気持ちに変化したのでした。
いままで迷いに迷い、深い迷路に迷い込んでいた私は、支部長から広く明るい大通りに助け出されたような気持ちになることができました。
もちろん、「道場を運営する」ことと「武の道を極める」というのは、直接に重なるものではありません。
しかし、支部長のこの言葉が、生涯にわたり空手、武道を全うするという強い意志を持つきっかけとなったのは事実です。

そして、年が明け1998年になりました。
新年度の4月、それまで稽古指導をされていた先輩に話しました。
「僕が熊本支部の責任者になります」と。
この申し出に対して、その先輩も喜んでくれました。
それから支部の責任者としての活動が始まりました。
これ以降、支部長は支部の一切の活動にタッチされなくなりました。ほんとうに空手指導から離れられたのだと思い、任された責任を強く感じました。
もちろん、私個人はその後も、お亡くなりになる最後の最後まで支部長にご指導をいただきました。

その後の支部活動のことは、過去の拙文でいろいろ書いてきたとおりであります。
これからも折に触れて、熊本支部の歴史は書かせていただきたいと思っております。

繰り返しになりますが、私が今こうして何の悩みも葛藤もなく、ごく自然に自分の人生の一部として空手という武道を続けることができている一番の要因は、1997年12月の支部長からの一言によるものです。
支部長には感謝しかありません。


ところで、およそ世上における思い出話とか回顧録などには、筆者の脚色が多分に入ります。また、自己に都合の悪いことは書かないものです。
しかしそれでも、行間からにじみ出る筆者のごまかしや弱さ、醜さというのは、隠そうにも隠しきれないものがあると思います。

今回の私のお話も、無意識に脚色が入っているかもしれません。
しかし、1997年12月の「あとはお前がやれ」は、偽りなく一文字も違わずに支部長から出た言葉でした。
短いお言葉でしたが、私にとっては「人生の言葉」となりました。

押忍